グリニッシュ

キリマンジェロの雪 The Snows of Killimangaro

アーネスト・ヘミングウェイ訳:吉田 愛一郎

1/4ページ

「痛みがないのは素晴らしいよ」
 男が言った。
「これで始まってしまったのが分かるよな」    
「ほんとなの?」
「間違いなした。臭くてものすいごく悪いけどな、たまらないだろう」
「やめてちょうだい、お願いだから止めて」
「奴らを見ろよ」男は言った。「さて、視覚かね、それとも嗅覚でつられて来たのかな?」
 大きなミモザの木陰に男がコットに身を横たえながら、その木の影から外れた草むらの強い照り返しの中に居汚くうずくまっている三羽の大きな鳥を見ていだが、それとは別に、地上にすばやい影を走らせながらもう12,3羽が上空を舞っていた。
「トラックが壊れた日から居るんだが」と彼が言った。「地べたを歩いたのは今日が初めてだな」
「始めのうちはは話の種にとも思って、注意して見ていたんだが、今となっては笑い種だよ」
「そんな事にならないといいのだけど」
 と彼女が言った。
「だだ喋っているだけじゃないか」
 彼が言った。
「喋ってるほうが、ずいぶん気がまぎれるんだけど、煩いなら黙るぜ」
「あのね、煩いわけじゃないのよ」
 彼女が言った。
「なんにもしてあげられないから、いらいらしちゃったのよ。飛行機が来るまでできるだけ気楽にしていましょうよ」
「飛行機が来ないってことになるまではな」
「そんなら、どうしたらいいのか言ってよ。私にできることだってあるはずよ」
「脚を取っちゃってくれれば止まるかもしれないな。それも怪しいもんだがな」
「いっそ撃ち殺してくれないかな。もう、いい腕になってるんだから、撃ち方はおしえてあるよな?」
「お願いだから、そんな風に言わないでね。読んであげることくらいはできるけど」
「読む?何をだ?」
「鞄の中のまだ読んでない本よ」
「聞いてなんかいられるか」
 彼は言った。
「喋っているのが一番だ。時間つぶしの口喧嘩だ」
「言い合いなんかしないわよ。言い合いは絶対嫌よ。二度と言い合いはよしましょうね。イライラしてもしなくてもみんなは他のトラックで今日中に戻ってくるわ、飛行機がくるかも知れないわね」
「俺は動きたくないな」
 男が言った。
「お前は楽になるかもしれないけど、俺は動いたってどうにもならないよ」
「意気地なし」
「憎まれ口なんかたたかず、できるだけ安らかに死なせてくれられないものなのかね?いまさらなぶり殺してどうするんだ?」
「死んだりなんかしないわよ」
「馬鹿もいいかげんにしろ。俺はもう死にかかっているんだ。あん畜生どもに聞いてみろ。」 
 降下してきた四羽目が着地をするや小走りとなり、仲間の方に向かってユサユサ歩いて行った。
「あんな鳥どのキャンプの周りにもいるのよ。知らなかったんでしょう。諦めなければ死なないのよ」
「どこで読んできやがったんだ。だからお前はど阿呆だっていうんだよ」
「人の身にもなってみなさいよ」
「いい加減にしてくれよ。 おれの勝手だろう」
 身を横たえるとてるとしばらく黙ったまま、燃え上がるばかりの草原をかなたの茂みまで見渡すと、遥かに小さく黄色と白のトミーが二三頭、さらに遠くには茂みの緑に縞馬の群が白く見えた。ここは大きなミモザの木の下の、丘を背にした素敵なキャンプで、涸れかかってはいるが、朝になるとサンドグロワースが飛んで来る良い水が出る水穴もあった。
「読んでほしくないの?」
 彼女はコットの脇のキャンバスチェアーに座っている。
「風がそよいでくるわ」
「読まないでいいよ」
「トラックが来るかもね」
「トラックなんかどうでもいいよ」
「私はどうでもよくなくないわよ」
「俺がどうでもいいって言っている事にいちいち拘るんだな」
「いちいちではないでしょ」
「では酒はどうなんだ?」
「それは良くないんじゃない、ブラックの本にもアルコールは全て控えるようにって書いてあったし飲んじゃだめよ」
「モロー!」彼は叫んだ
「ウイスキーソーダ二つ持ってきてくれ」
「はい、ブアナ」
「だめよ」
 彼女が言った。
「そういうのを諦めるって言うのよ。体に悪いって書いてあるじゃない。駄目なんだって」
「駄目じゃないさ」
彼は言った。
「俺には酒が合っているんだ」
 もうみんな終わりだと思った。これでけじめがつけられなくなってしまった。こんな風に酒のことなど言い争いながら終わってゆくのだ。右脚が壊疽に罹ると痛みが消えて、痛みと共に恐怖も去って、今はとてつもない疲労感と、こんな終わり方に腹立たしいだけだ。今まさに、この身に起きているこのことに対しても、ほとんどどうでもよくなってしまっていた。何年もの間、こだわり続けたこの事が、まったく意味のないものになってしまったのだ。疲れるとなぜ、いとも容易くこのようになってしまうのかが不思議だった。
 よく理解してから書こうとしていた幾つかの物事は、書かずじまいになってしまった。書かなかったから書き損じもしなかったのかもしれないが、書けなかったからグズグズと後回していたのかもしれない。もう今となってはどうだか分らないよ。
「来なければよかったわね」女がグラスを片手に唇をかんで言った。
「パリにいればこんなことにならなかったのに」
「あなたいつでもパリが好きだって言っていたのにね。撃つんならハンガリーにいって楽しく撃てばよかったのよね」
「お前の金はやばぜ」
 彼が言った。
「そんなの一方的よ」
 彼女が言った。
「お金はいつだってあなたと私の物でしょ。しがらみを全部断って、あなたの行くまま気の向くままにしてきたけど、ここだけは来ないほうがよかったわね」
「ここが大好きって言っていたじゃないか」
「言ったわよ、あなたが丈夫だったからよ。でももう嫌いよ。私たちがいったい何したって言うのかしら」
「それはまず、引っかいたときにヨーチンをつけなかったことだと思うよ。いままで膿んだことがなかったからそのまま気にしなかったんだよね。、膿んでしまってからは、消毒薬がなかったから、オキシフルを水に溶いたやつを使って毛細血管を麻痺させてしまったんだ」
 彼女を見ていった。
「他にどうした?」
「そんな事言っていないでしょ」
「もし半端なキクユの運転手なんかじゃなくて、ましな整備士を雇っていたら。オイルをキチンと見てトラックのベアリングを焼きつかすことなんかなかったよな」
「そんな事、言ってないでしょ」
「もしお前がオールドウェズベリーや、サラトガや、パームビーチの奴らを袖にして
俺を選ばなかったら、、、、、、」
「それは貴方がすきだったからじゃない。今だって好きなのよ。私のこと愛してないの?」
「いや、愛してないね」男が言った。「まえまえから愛していなかったのだと思うよ」」
「ハリー、何てこと言うのよ、頭が狂っちゃったんだわ」
「いや、前から頭は正常だよ」
「じゃあ飲まないでね、お願い飲まないで、やれることはなんでもやりましょうよ」
「勝手にしろ。おれはかったるぜ」
 カラガッチ駅が頭に浮かんできた。荷物を携えてたたずんでいる。あれはシンプソンオリエント急行のヘッドライト、闇を引き裂いてやって来る。あの大移動があった後のトラキュラを離れようとしているのだ。
 この話は、朝食をとりながらあのナンセン翁の秘書ちゃんが窓辺からブルガリアの山並みに目を向けて、あれ雪じゃないかしら?と尋ねると、老人は、いや雪ではないよ。雪には早すぎる。それで秘書はそれをそのまま他の娘たちに、違うわよ、雪じゃないわと言った。すると娘たちは、雪じゃなかったのね。見間違いだったのね、とてんでに言い交わしたものだった。しかしそれは紛れもなく雪だった。ナンセンによって遂行された民族交換政策によって送り出されたその子達は、その冬、その雪の上をとぼとぼと歩いて死んでいったのだ、、、、、という下りと一緒に書こうとしていた話の種だった。
 その雪はクリスマスから一週間ガルタガールに降り続いた。その年、皆が四角い磁器が半分も占めるような木こりの家の部屋で寝ていると、憲兵が追いついてくる、といって足を血に染めながら脱走兵ガやってきたので、その男に毛糸の靴下をやり、後から来た憲兵に吹雪が足跡を吹き消すまで話しかけて追手を引止めようとしたことがあったっけ。
クリスマスのシュルンツではワインステューブから外を眺めると雪が白くて目が痛い。
皆が協会から帰ってくる。あの橇で均され小便色に黄ばんだあの川沿いの道を、重いスキーを肩にして、マドレーナハウスの上の雪渓を滑るため松林の険しい峠を幾つも越えて登って行ったっんだったね。
 雪はケーキに塗られた砂糖ごろものように滑らかでしかも軽い粉雪だから、物凄い速度で滑り降りると、鳥が急降下をするように雑音がかき消されてしまったのを思い出したよ。
雪に閉じ込められた一週間。ブリザードの中での煙に薫るランタンの光でのトランプ博打。へールレントが負けるにつれて掛け金が競りあがって、彼はとうとう有り金を全部をすってしまったんだ。シュシュールの金も、そのシーズンの儲けも元金もだ。カードを引いては「サンボアール」、あの長い鼻が目に浮かぶ。雪が無いといっては博打。降りすぎたといっては博打。博打、博打の毎日だった。
 そんなことだって、平原の彼方にブルガリアの山々が凛として輝くクリスマスにバーカーが前線を侵犯、オーストリアの将校の帰省列車を爆撃して、逃げ惑う彼らに機銃を浴びせたことだって何も書いていない。帰還したバーカーが食堂に入ってきてそのことを話し始めると、あたりは静まり返っって、その場の誰かが「この人殺し野郎め」と言ったことを思いだした。
 奴らが殺したのも、戦後にスキーを一緒にしたのも同じオーストリア人。いや同じであるわけがないよな。その年ずっとスキーを一緒にしたハンスは、カイザーイエーガーにいたんだ。だからパスビオの戦いや、ペルティカやアサロンの攻撃のことを製材所の上の小さな谷間でウサギ狩りをしながら語りあったんじゃないか。そんなことだって一言も書いていないし、モンテカルロもセッテコムーニやアルシエーロのことだって書いてはいないのだ。
 ボラベルグやアルベルグで幾冬過ごしただろうか?四回だ。あの時ブルーデンツにプレゼントを買いに歩いて行った時に狐を売っていたあの男や、桜ん坊の種の味がする上等のキルシュ、それに新雪がものすごい速さで根雪の上を滑り落ちることや、「ハイ!ホー!ってロリーがよー」 って歌って最後の急坂を直滑降し、果樹園の内を三回くねってから側溝をよぎり、宿屋の裏の凍てついた道に出る。ビンディングを叩いて緩め、スキーを蹴り外して、ランプの灯りが窓辺から漏れる板壁にスキーを立掛けて入って行くと、くゆる煙のその中は新酒のワインの温か匂いがただよって、アコーディオンが奏でられていたっけ。
 パリではどこに泊まっていたっけ」アフリカでキャンバスチェアーに座っている女に聞いた。
 ここはアフリカだ。
「クリヨンよ。知っているでしょ?」
「何で俺が知っているんだ」
「いつも泊まっていたじゃない」
「いつもじゃなかっただろう」
「サンジェルマンのアンリ クワトロのこともあったわね」
「あなた、そこを愛してるっていってたじゃない」
「愛なんて糞の山だぜ」
 ハリーが言った。
「俺はそこに上がって勝鬨をあげている雄鶏だ」
「退却する時って、必ずなにもかも殺していかなければならないの?あのね、なにもかも巻き添えにしなかりゃならないってこと? 馬も、妻も、殺さなければならないの?鞍も鎧も焼かなきゃならないの?」
「そうだよ」
 彼は言った。
「もの凄いお前の金が俺のアーマーさ。スイフトでありアーマーさ」
「やめてよ」
「わかったよ。止めるよ。なにも傷つけるるつもりはないんだ」

「もうちょっと遅いわよ」「わかったよ。それならいたぶり続けよう。そのほうが面白い。お前とのたった一つの楽しみだって今じゃできないんだから」

「そんなことないわよ。あなた、いろんな事をしたがったから、私だってお付き合いしたじゃない」

「ああ、自慢は止めてくれ、頼むよ」

見ると彼女は泣いていた。

「聞いてくれよ」彼が言った。「こんなことして、俺が楽しいとでも思ってるのか?なんでこんなことしているのかわからないんだよ。これじゃ生きようっていうものまで殺してしまうと思うよ。話し始めたときはまともだったさ。こんなことしようとは思っていなかったんだ。それなのに馬鹿みたいに狂っちゃって、酷いったらないよね。俺の言うことなんか気にかけないでくれよ、お前。本当に愛してるんだ。愛しているんだよ。こんなに愛したやつは他にいないんだ」

彼は飯の種の嘘にのめり込んでいった。

「あなたって、優しいのね」

「スベタめ」彼が言った。「この銭すべた」これは詩なんだよ。詩の言葉でいっぱいなんだ。 腐った

詩、腐れ歌」

「止めてハリー、何で今度は悪魔になっちゃうのよ?」

「何も残したくないんだ」男が言った。後に何も残したくはないんだよ」

もう夕刻だった。寝てしまったのだ。太陽は丘の後ろに入って、その影が草原いっぱいに伸びている。小動物が茂みからかなり離れて、キャンプの近くまで出てきて小首を下げたり、尻尾を震わしたりして餌をあさっているのを見ていた。

「奥様、狩行った」若い衆が言った。「旦那なに欲しい」

「何にも」

彼が狩りを見たいことを知りながら、彼女はこのあたりを乱さないようにと彼の目の届かないところまで肉を一切れ狩ろうとして出かけて行ったのだ。 知っていること、読んだこと、聞いたことのあることにたいしてはいつもながら気を廻しやがると彼は思った。

TOPに戻る
TOP