グリニッシュ

キリマンジェロの雪 The Snows of Killimangaro

アーネスト・ヘミングウェイ訳:吉田 愛一郎

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女のもとに身を寄せた頃の彼はがもう駄目になっていたのは、この女のせいではない。そもそもどうして耳障りが良くて実のない彼の口癖が女に見分けられるのだろうか?話に意味がなくなってからの嘘の方が女どもには受けがいいが、それは嘘というより、実のある話に事欠いるのだ。かつては自分の人生があったが、それが終わると、今までには出入りしなかっらたような、その界隈の最上の場所や、いままで行ったことがなかったような所に出入りしながら、もっと金のある連中とまたぞろ暮らすようになったのだ。
  それも深く考えなければ素晴らしいことばかりだ。ただ、腹の心底はしっかりしていたので、囲のやつらみたいな完全には腑抜けきれず、俺はこいつら大金持ちとは違うこの世界に入ったスパイだから、もう出来なくなったかつての仕事なぞどうでもいいようなふりをしながら、いつかこんな世界から離れて、この世界の事を書いてやろう、そうすれば本当にこの世界を体験しただれかさんによってここの物語が出来上がるのだと思っていた。しかし、結局書きはしなかった。軽蔑していたやつらと腑抜けた生活を送っているうちに、能力が鈍って、意思も軟弱になり、とうとう書けなくなってしまうのだ。 もっとも、仕事をしなかったから今の知り合いたちともはるかに楽しく過ごせたのだったが、その中でも一番楽しかった所がアフリカだった。だからもう一度戻ってやり直そうと思ってここにまたやって来たというわけだ。
 贅沢を極力控え、豪華ではないが、厳しさなんてどこにもない今度のサファリなのに、まるで拳闘士が山篭りして練習したり、体の鍛錬をして体内の脂肪を燃やしつくすように魂の澱を落とせると思い込んでいた。
 彼女はそんなことが好きだった。大好きだと口に出して言った。違った場所で知らない人がいて、楽しい事があれば何でも好きだった。彼は彼で仕事向かう強い意志が戻ってくることを幻想した。しかし今、このような終わり方をするのを知っていたら、背骨が折れた蛇が自分の背中をかむようなことをすべきではなかったのだ。そういうことだってこの女のせいではないのだ。例え他の女とだってこのようになっていたさ。嘘に生きたのだったら、嘘で死んでしまったらいい。そんな時。丘のむこうから一発の銃声がした。

お人よしの成金女、親切ごかしの世話焼で、おれの才能の破壊者だ。何を言っているんだ。自分の才能を壊したのは自分だろう。よくしてくれたのを恨んでいるのか。才能を使わずにだめにして、自身を裏切り、信念を裏切り、飲んでは才能の刃先を鈍らせ、怠惰によって、気取りによって、慢心によって、偏見によって、ありとあらゆる事によって、、、
 なんだこれは、昔の本の目録か?才能とは一体なんだったのか?才能は紛れも無くあったのだ、しかし使うことなく売り飛ばされてしまったのだ。やり遂げたことはなにもなく、ただ、やっていれば出来ただろうと言うことだけだった。そして彼はペンや鉛筆によって生きることをせずに、なにか違うことをして生きる道を選んだのだ。恋に落ちる新しい相手がいつでも前の女より金がなくてはならないことだって奇妙なことではないか? それも、誰よりも金持ちのこの女、有りったけの金をもっているこの女、かつては主人も子供もいたこの女、かつては一人ならず恋人を持ちながらも満たされずにいたこの女、作家であり、男であり、伴侶であり、自分の誇りとして彼を心底愛しているこの女。不思議な事だけど真意の愛のかけらもなく、嘘ばかりついているほうが、本当に愛している時よりも、女の金に見合ったことをしてやれるものなのだ。
 人は皆その行いにあわせてこの世に生を受けているのだと彼は思った。人はその才能によって食ってゆくのだ。彼は形を変え品を変えながら自らの活力を売ってきた。しかし、そこにはなまじ愛が絡まないほうがその対価に見合った事がしてやれるものだ。それには気づいてはいたのだが、それを書いたことはないし、書く価値があっても書きはしないだろう。
 彼女が見えた。ジョッパーを履いてライフルを持って平原を越えながらキャンプに向かって歩いてくる。彼女の後ろから若い衆が二人で仕留めたトミーを担いで来る。まだまだ見栄えのする女だと思った。それに素適な体つきだ。大変な床上手で、その反応もすばらしい。可愛らしい顔と言うわけではないが、彼好みの顔だ。物凄い読書家で、乗馬が好と狩猟が好きで、それは確かに大酒飲みだ。まだ若い時分に夫を亡くし、しばらくは大きくなって親離れした二人の子供にかまけては疎ましがられたり、厩舎の馬や、本や酒に没頭したりしていた。夕刻になれば夕飯の前の酒が楽しみで、本を読みながらスコッチのソーダ割りをやった。すると夕飯までにはかなり酔っ払って、夕飯のワインで出来上がってそれで寝てしまうのが常だった。
それは愛人が出来る前のことで、愛人がいると酔わなくても寝られるものだからそんなに飲まなくなった。しかし、愛人等はつまらない輩だった。彼女の結婚相手は凡夫ではなかったから、その愛人たちには癖へきしてしまった。
 そうこうするうちに、二人の子供の一人を飛行機の墜落でなくしてしまうと、愛人達が疎ましくなり、酒ももはや麻酔薬とはならず、そのような生活から抜け出さなければならなくなった。そして突然孤独感に襲われ、一人でいるのが怖くなり、誰か頼りになる人が欲しくなったのだ。
 始まりはなんてことはなかったのだ。彼女は彼の書いたものが好きで、いつも彼の行き方に憧れていた。この人はまさに生きたいように生きているのだと思った。
親密さを増しながら、とうとう恋に落ちていったその成り行きは、新しい人生を築き上げようとしていた女と、人生の残りカスを売り払ってゆく男との、何処にでもあるようなただの結びつきだったのだ。
 彼はそれで生活の安定と安楽を得たことは否めない。
他には何の為だ? 知るものか。ただ、欲しがれば彼女は何でも買ってくれた。それはそのとうりだ。 そんな女とは誰でとでもためらうことなもく褥をともにしてしまうのはいつものことだが、この女とはまさにすぐさまだった。それはこいつが他の誰より金持ちだったから、気立てとてもよくって、どんななことにも喜んでくれたから、それに怒って喚くようなことがない女だったから。
 しかし、彼女が再び造りあげたこの生活も、ウォーターバックの群れの撮影で、彼が前に踏み出そうとして茨で膝を引っかいた時にヨーチンをつけなかったから終わってしまったのだ。鼻を上げてあたりをうかがい、両耳を広げ音がしたら直ぐ、薮の中に飛び込もうとしていたその群にも撮る前に跳んで逃られてしまった。


 彼女が帰ってきた。
 彼は首を回して彼女を見ていった
「よお」
「トミーの雄を撃ったわ」
 と彼女が言った。
「いいお澄ましになるわ。クリムでマッシュドポテトを作らせるわ。ご機嫌いかが?」
「ずいぶんいいよ」
「よかったじゃないの。私そうなるって思っていたのよ。出かけるときにはお休みだったのよね」
「ぐっすり寝たよ。遠くまで歩いていったのか?」
「いいえ、ちょっと丘の向こうまでよ。トミーをかなり見事に仕留めたのよ」
「そうだね、素晴らしい射撃だったね」
「楽しいわ。アフリカが好きになっちゃったわ。本当よ。あなたさえ大丈夫なら、こんなに楽しいことってないのよ。あなたと狩ができたら私、どんなに素敵か知れないわ。私この国が好きになっちゃったわ」
「俺も好きだよ」
「あのたが良くなるって、どんなに嬉しいか知れないわ。あんなに不機嫌なあなたって耐えられない。もうあんなこと言わないでね、約束よ?」
「だめだよ」彼が言った。「何を言ったのか覚ええいないんだから」
「私をめちゃめちゃにしたってしょうがないでしょう?私ってあなたを好きで、あなたの好きにさせてあげたいただのおばさんなんだから。もう二三回はめちゃめちゃにされちゃってるんだから。もうめちゃめちゃにしないでよ。お願いよ」
「ベッドではめちゃめちゃにしてやりたいぜ」
「そう、それはいいめちゃめちゃなの。私たちそういうめちゃめちゃをするようになっているのよ。飛行機だって明日来るんだから」
「なんでわかるんだよ」
「絶対来るわよ。来ることになってるんだもの。若い衆も薪の用意が出来てるし、狼煙のための草だって。下に下りてみてきたんだから。着陸の場所は充分だし、狼煙も両端に用意できてるのよ。」
「何で明日来るって思うんだよ?」
「来るわよ。遅れてるのよ。町に行って足を直して、それから楽しいめちゃめちゃよ、あんな恐ろしい話し方、嫌だからね」
「いっぱいやるか?日も落ちたし」
「飲んでいいの?」
「飲んじゃうよ」

「じゃあご一緒するわ」
「モロ、レティ、デュイ ウイスキーソーダ」
 モスキートブーツを履いたほうがいいよ」と言った。
「お風呂に入ってからね、、、、」
「飲むにつれ闇は深まり、黄昏時、暗くて撃てなくなると、いつものハイエナが草原を草原を横切り丘の向こうに帰って行く。
「あん畜生、毎晩あそこを横切りやがる」男が言った。「二週間毎晩だ」
「毎晩煩いのはあれなのね。私は平気。だけど薄汚動物ね」
同じ姿勢でいるのは辛いけど、もう痛みはなく、二人は飲み、若い衆はたいまつ火を点けて、
その影がテントに躍り上がり、彼は、敗北を甘んじるあの心地よさが舞い戻ってくる。のを感じる。

彼女はとても良くしてくれた。それなのに今日の午後、彼はずうっと残酷で理不
尽だった。彼女はいい女、そしてほんとうに素晴らしい。すると自分は死にかけ
ているとい思いがふいにした。
 それは突然やってきた。それは水とか風が寄せてくるととは違う、悪臭のする突発的
な空虚で、しかも奇怪なことに、ハイエナがその縁を軽やかにすり抜けて行くではないか。
「あれ何なのハリー?」
 彼女が尋ねた。
「なんでもないよ」
 彼は言った
「反対側に行かなければ駄目だ。風上にだ」
「モロは包帯を替えてくれた」
「うん、石炭酸を使っているだけだけどな」
「どんな感じ?」
「ちょっとクラクラする」
「お風呂に入るわ」
 彼女が言った。
「すぐ出るわよ。一緒にお食事してから、コットをしまわせるわね」
 さあ。彼は自分に言い聞かせた。よく言い争いを止められた。この女とはあまり言い争いをしなかったが、好きな女とはいつもよく言い争い、ぶつかりあい、その作用でとうとう互いには
ぐくみあったもの全てを殺してしまったのだ。愛しすぎ、求めすぎ、みんなぼろ
ぼろにしてしまうのだった。

出掛けのパリで言い争い、寂しくやってきたコンスタンチノーブルでの事が頭に浮んだ。女を買ってばかりいたが、消え去るはずの淋しさはつのるばかりとなり、とうとう自分を棄てたあの初恋の女に寂々とした手紙を書いてしまったの。
レジャンスの外に君の面影を見た思いに、気も遠くなるばかりに胸苦しく、君の面影を映すその人を、人違でないことを願い、思いが裏切られぬことを願いながらそこを飛び出して、ヴールバードに君の面影を追っただとか、どんな女と褥を供にしようとも君への思いは募るばかりだとか、昔の仕打ちの時の思いなぞ、もうどうでもよいほどに君が恋しくなってしまったとか、そんなことを素面のうちにクラブで書いて、それをニューヨーク向けに投函した。
返事はパリの記者倶楽部にくれとしておいたのは、そのほうが安全だと思っていたからだ。
そしてあの夜、その人を想うと胸の内が切なく苦しくて、さ迷い歩きタクシム広場を過ぎるころに女を引っ掛けて晩飯に行った。
それから踊りに出かけてみたのだが、女は気乗りのしないように踊ったので、相手をアルメニアのあばずれに取り替えたのだが、そいつが下腹が焼けるほどに擦り上げて来やがった。
この女を英国の砲兵隊の副官からいただいた時に一もめが起きた。副官が表に出ようと言ったので、暗闇の中の砂利道で喧嘩が始まった。
顎の横に二発叩き込んでやったが、ひるみはしない。
こりゃ、ハッタリかまして出てきたんじゃないぞって思った。副官がボディーと目尻に入れてきたから、もう一度左を振り回すとそれがぶち当り、副官はこっちに持たれも込むと上着の袖を掴んで引きちぎったので、耳の後ろに二発振り下してから、右で一発をぶちかましておいてから突き飛ばした。
副官が頭から崩れ落ちてゆく時にMPの来る音が聞えたのから、女と逃げた。
二人でタクシーに乗り込んでボスホラスを走り、リミリヒサを巡ってから涼しくなった街に帰って女の寝床にしけこんだ。
女はちょっと見には熟しすぎのように見えたが、肌は滑らかで薔薇の花弁はしとどに濡れて、すっきりとした腹に豊かな胸で尻に枕をあてがうこともない女だったけれど、目覚めた女のくしゃくしゃ面なんかが朝日に照らされるなんぞ見たくもないから、黒痣が付いて目のままで袖が無いから着られなくなった上着を手に持って彼はペラパレスに戻ったもんだ。

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