グリニッシュ

キリマンジェロの雪 The Snows of Killimangaro

アーネスト・ヘミングウェイ訳:吉田 愛一郎

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ずいぶん昔の事になるが、工兵隊将校のウイリアムソンが鉄条網をくぐって帰って来た時に、ドイツのパトロール隊の誰かが投げた手榴弾に直撃されて、撃ち殺してくれと誰彼を問わずに叫びながら懇願していたあの夜のことを思い出した。大げさな素振りが癖の奴だったが、太った有能な仕官であった。しかしその夜、サーチライトに照らしだされたままの彼は内臓を針金に引っ掛かけてしまい、生きたまま引き入れ様とするには、はみ出した部分を切り離さねばならなかったの。撃ち殺してくれよハリー。頼むから撃ってくれよ。何時だったか、我が主は人が絶えがたき苦しみは与えず、の意味で論争したとき、痛けりゃ気を失うってことだと誰かが自説を述べていたが、その夜のウイリアムソンの事は忘れようにも忘れられるものではなかったのだ。ウイリアムソンの気は確かで、彼が自分用に取ってあったモルヒネの錠剤を全部やってもすぐには利かなかったものだった。

  それに比べればまだこんな物はまだ楽なもので、もっと悪くならなければしなければ心配はない。ただもっとましな連中といたかったったってことはあるよな。

それじゃどんな連中と一緒ならよかったかを少し考えてみた。

だめだ。いつだってお前は長ったらしいしのろいから誰も残っていやしないんだ。パーティーは御開きでお前はお上さんと二人きり。

もう死ぬのも他の事と同じようにかったるくなってしまった。

「かったるいぜ」声にだした。

「どうしたのあなた」

「何をやっても俺は酷くのろいんだ」

自分と火の間にいる彼女を見た。椅子の背に見を持たせている彼女の型の良い顔の輪郭を焚き火が照らしだしているけれど眠そうに見える。焚き火の明かりの外でハイエナが

鳴き声を上げた。

「書いてるんだけど」と彼が言った。「疲れたよ」

「眠れると思う?」

「まず大丈夫だよ。休んだらどうだい」

「あなたのそばで座っていたいのよ」

「なんか奇妙な感じがしないか?」彼が聞いた。

「しないわよ。ちょっと眠いけど」

「俺にはするよ」彼が言った。

また死がやって来たのを感じたのだ。

「あのな、好奇心だけは無くならないんだよ」彼女に言った。

「なにも無くしてないわよ。こんなに完璧な人私知らないわ」

「かんべんしてくれよ」と彼は言った。「女に何がわかるんだ。なんだそれは?いつもの思い込みか?」

それは死がやって来て息を臭わせながらコットに頭を持たせかけていたからだった。

「死神は鎌を持った髑髏じゃなかったんだな」彼女に言った。「それは自転車に乗った二人の警察官にも簡単になるし、鳥にもなる。あるいはハイエナのような大きな鼻面となることもある」

それは彼の上に乗ってきたがもう形をなしていなかった。いまやそれは単に空間を占めるだけの物となっていた。

「うせろ、っていってくれよ」

それはうせるばかりかもう少し迫ってきた」

「息が臭いんだよ」彼がそれに言った「くさい野郎だ」

それがますます迫ってくると声を出す事がだせなくなってしまったので無言で追い払おうとしたがそれはさらに乗りかかって、そいつの重みが胸中に広がり、そいつが居座って動く事も喋る事も出来なくなっていると女の声がした「ブワナはお休みよ。コットを

そっと持ってテントに入れてちょうだい」

 どかせてくれと言えずにいるとそれはもっと重く圧し掛かって息も据えない様になっていた。しかし、彼等がコットを持ち上げると突然難とも無くなって胸の重しもなくなってしまったのだ。

  朝だった、いつのまにか朝になると飛行機の音が聞こえてきた。小さく見えてから大きな輪を描くと若い衆が駆け出して灯油で火をつけて草を積み上げると水平の両端に二つの大な狼煙が立って朝風が煙をキャンプに運んでくるころ飛行機はもう二回旋回して

それから高度を下げて滑空してから水平になって滑らかに着陸するとなんと長ズボンに

ツイードのジャケットそれにフェルトの帽子を被ったあのコンプトンがやって来るじゃないか。

「どうしたんだよ、お前」

「足が駄目なんだ。朝飯食ってくか?」

「悪いな。じゃ茶だけちょっと飲ませてもらうか。プスモスだからよ。奥方は乗せられないぜ。一人分しか空いてないからよ。お前のトラックがやって来るよ」

ヘレンがコンプトンを脇に連れて行っては話をしている。

コンプトンがさらに上機嫌になって戻ってきた。

「すぐ乗せるぜ」彼が言った。「かあちゃんを連れに戻ってくるよ。だけど給油でリュシャに寄らなくなるいかもな。すぐ出発しようぜ」

「ティーはどうするんだ」

「そんな物飲まなくたってどうってことはないよ」

若い衆がコットを持ち上げて幾つかの緑色のテントの間を縫ってから岩の側を通って赤々と燃えている狼煙の間を抜けて草原に出た。草全部に火が回り、風に煙が小さな飛行機の方にたなびいている。乗せるときは厄介だったが、乗ってしまってからはコンプトンの脇に片足を突き出したままでレザーシートに背を持たせかけた。コンプトンがモーターを始動させて機に乗りこんで来た。彼がヘレンと若い衆に手を振ると、エンジンの乾いた音がいつもの轟音に変わると皆が機体を回して向きを変え、コンちゃんはワートホッグの巣穴に用心しつつエンジンを唸らせた、機は体を弾ませながら二つの狼煙の間の直線を滑走し、最後の一跳ねで浮く、皆が手を振って立ってるのがいるの見えて、丘の脇のキャンプが平面的に見えて、草原は広がり、まばらに群生する木々と、平面となった潅木になだらかな獣道は幾つかの水穴に向かって登り、そこには見たことのない新しい水もあった。丸く小さく見えるゼブラの背中と大きな頭が点々と続くウィルドビーストの列は草原を被う手の指をよじ登って蠢いている様だ。機影が近づくと隊列が乱れる。もうとても小さくなって駆け足をしている様が見てとれな。渡す限りの草原はくすんだ黄色で、目の前はあのコンちゃんのツイードの背中と茶色のフェルトの帽子。そして二人はウィルドビーストに引き上げられるように最初の丘陵地帯を越え、森が隆起が山々をなすところに走るいくつもの断崖と竹だけの斜面を越えると、また全体が峰々やいくつかの谷間を造りあげている

深い森を最後まで飛び続けると下り勾配の丘陵地帯となり、それから紫がかった茶色の別の草原に出だ。熱くなってきた、熱気に機体が跳ねたからコンちゃんが乗り心地に気を使って振り向いた。さらに前方には他の黒っぽい山と山。すると機はアル-シャには向かわず左に方向を変えたから、きっと燃料は大丈夫なのだと下を見ると、ふるいにかけられたようなピンク色の群れが地面を蠢いていたが、それが地吹雪の吹き始めのように空中に舞い上がったかそれが南からやって来たバッタの群れだと分った。それから二人の機は上昇して東に向うようだったが、あたりが暗くなって、嵐に突入した。雨脚は激しくまるで重く滝のなかを飛んでいる様だったが、それを抜けるとコンちゃんが振りかえってニヤリと笑って前方を指差した。それはこの世界一パイに広がる偉大にそびえて日の光を浴び、信じがたいほど白い角張ったキリマンジャロの頂上だった。そうか、そこに行くのかと彼は思った。

突然ハイエナがその夜鳴きやんで、人が泣くような変な声をあげ出した。それを耳にした女は胸騒ぎに身じろぎした。目がさめないままの夢の中でロングアイランドの家に居た。娘が社交界にデビュウする前の晩だった。なぜだか彼女の父親がそこにいて粗野に振る舞っている。そうしているうちにもハイエナが大声をあげるものだから彼女は目を覚ましてが、自分がどこに居るのか判らなかったからとても恐ろしかった。それから彼女は懐中電灯を手にしてハリーが寝てから運び込んだもう一つのコットを照らし出した。蚊帳の中に大きな体があるがなぜだか片足がベッドの脇に突き出てぶらさがっている。包帯がみな解けたそれは見られたものではなかった。

「モロー」が呼んだ。「モロー、モロー」

それから「ハリーハリー」と言った。それから大きな声で「ハリーたら、お願いだから

ああハリー」

返事はなく、呼吸の音も聞こえなかった。

テントの外では相変わらずハイエナが彼女を起こしたあの奇妙な声をあげてたが、胸の鼓動でなにも聞こえなかった。

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