グリニッシュ

キリマンジェロの雪 The Snows of Killimangaro

アーネスト・ヘミングウェイ訳:吉田 愛一郎

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アナトリアに向ったのはまさにその日の夜で、その旅も終わる頃に馬に乗ってアヘン用の芥子畑を一日中揺られると妙な気分になってしまい、どの方面も距離感がおかしくなってしまったことを思い出した。そこは以前、コンスタンチヌスから新参した将校達が、そんなことはちーっとも知らずに兵もろともに攻め込んで、なんと味方の中隊を砲撃してしまったものだから、イギリスの観戦武官が子供のように泣き喚めいていた場所だった。バレー用のスカートと反り返った靴にポンポンが付いた靴を履いた死体を見るなんてその日が初めてだった。トルコ軍が怒涛のごとく押し寄せるとスカートの男達が逃げ出すのが見えた。将校達は逃げる奴らに発砲していたが、やがて自分立ちも逃げ出し、彼も戦争を視察していたイギリスの武官も逃げ出し、胸が痛み口の中がペニー銅貨の味で一杯になるまで走ってから岩場の陰に佇んで外を垣間見ると、止む事を知らず押し寄せるトルコ軍であたりは溢れかえり、それからは考えられない様な光景が目の当たりに展開された。その後もそこでは想像を絶する修羅場をそこで目にすることになり、その後も事態は悪化の一途をたどるっていった。だから、その時も、パリに戻ってきた時には、そのことを語る事もできず、触れられる事さえ耐えがたく、間抜けなジャガイモ面のアメリカ人の詩人が何枚もの皿が重なるその前で、トリスタンゾラと名乗るいつも片眼鏡を掛けた頭痛持ちのルーマニア人とダダ運動について話し合っているカフェを素通りにして、恋しさがまた募りだした女房の待つアパートに急いだものだった。言い争いは終わり、怒りっこもなし、我が家に帰ってやれやれとしていたある朝、出した手紙の返事が仕事場から自宅のフラットに送られて来てしまい、その筆

跡を見て身が凍り、それを他の手紙の下に滑りこまそうとしが女房が言った。「あなたそのお手紙どなたからかしら」それが終わりの始まりだったのだ。

   女たちとの楽しかったいろいろなときと言い争いの数々を思い出した。

女たちはいつもすばらしい場所を選んで言い争いを仕掛ける。なんで女たちはこの上ない幸せな気分のときに言い争うのか? その事を書いたことはない。始めは誰も傷つけたくなかったから書かなかったのだが、やがてはそんな事まで書かなくても書くことは十分にあるように感じ出した。だが何時かはこの事を書いてやろうとはいつも思っていた。まあ、書くことには困らなかった。彼は世界の変化を見続けてきた。それもただそれを出来事の数々として人々を観察するのではなく、そこにある繊細な機微を見つめて来たから、その折々の場面で人間がどう生きていたのかを思い出すことができるのだ。自からをその渦中に置き、そこで書く事を自分の使命としてきたのだ。しかし書きはしない。

「ご機嫌はいかが?」

湯上りの彼女が尋ねた。

「大丈夫だ」

「今食べられる?彼女の後ろでモロが折りたたみテーブルを持って、他の若い衆が皿を持っていた。」

「書きたいんだ」

「おすましを少し飲んで力をつけなくっちゃ」

「今晩死ぬのに力つけたってしょうがないだろ」

「ハリー御願いだから大げさなことを言わないでよ」

「鼻を利かせてみるんだな。太股の半分以上が腐っちまってるんだぞ。なんで馬鹿みたいに澄まし汁なんか飲まなけりゃならないんだ?モロウイスキーソーダ持ってきてくれ

「お願いだからおすましを飲んでよ」彼女が優しく言った。

「分ったよ」

澄まし汁は熱すぎた。戻さずに飲み下にはカップを持って冷ましていなければならなかった。

「お前はいい女だよ」彼が言った。「俺になんかにかまったりしないでくれ」

  彼女が彼を見た。以前よりベッドで少しやつれ酒で少々くたびれてはいたが、スパーやタウンアンドカントリーでお馴染みだった人気者のあの顔だ。もっともタウンアンドカントリーには、あの素晴らしい乳房や器用な両腿、彼の腰を軽やかに撫でるあの両手の手こそ載ってはいなかったが、誌上でお馴染みのあの優しい笑顔を目の当たりに見つめていたら、死が再びやってきたのを感じた。今度は迫ってくるのではなく、ふっと吹く風が蝋燭の炎を細く揺らすようなものだった。

「後で蚊帳を外に出して木に吊るして火を起こさせてくれ。今夜はテントに入らない。入ったってしょうがないよ。今夜は良い天気だ。雨は降らない」

お前はこうやって死ぬんだ。囁きが声にならない。

まあこれでもう言い争いはないだろう。誓ってもいい。誓いを反故にしないそんな気持ちに今初めてなった。でもたぶん裏切るんだ。お前はなんで裏切ってしまうんだ。だけど今度は裏切らないよな。

「口述筆記はできないよな。できる?」

「習ったことないのよ」

「それじゃいいよ」

そんな時間などありはしないから、うまくまとめて一節に簡略できないだろうか?

湖の上の丘に目詰が白いモルタルの丸木造りの家があった。扉の横に食事を知らせる鐘が竿に付いていた。家の裏手は原っぱでその後ろは林だった。ロンバルディーポプラの並木が家から船着場まで続き、岬までは他のポプラが伸びていた。林の際に沿った道が丘の上まで登って、その道々でブラックベリーを摘んだっけ。

あれからその丸木造りの家は焼け落ちてしまった。暖炉の上で鹿の足の上に乗っていた幾つかの銃も焼けて、銃身の中で鉛弾が溶けてしまったまま洗濯釜の芥として使われる灰の上に放置されていたから、お前は爺さんにそれで遊んでいいかと聞いたけど爺さんは駄目だと言った。それはなあ、そうなったって、それはまだ爺さんの銃だったんだよ。爺さんはそれを買い変えようともせず、狩にも行かなくなってしまっただろうが。

ブラックホレストで、あの戦争の後鱒釣りの沢を借りたが、そこに二通りの行き道があった。一つはトリベルグから渓谷を下り、白い道際の木立の下を抜けて谷間を巡り、それから脇道を大きなシュワルツワルド風の切妻家がある小さな農場の脇を登って流れを横切るまでの道。もう一つは森の端までの急な登りを登り切ってから、唐松の森を通り、丘のてっぺんを横切って原っぱの外れに出ると、それを橋まで下りる道。川幅は広くないから澄んだ急流は細く絞られ、流れを沿った樺の根方を抉って幾つもの淵を作っていた。トリベルグのホテルの主人にとって、それは申し分のないシーズンで、とっても楽しく、みんな大の仲良しだった。しかし翌年はインフレが襲い、前年の蓄えではホテルを開業する用品が備買えず、ホテルの主人は首を吊ってしまったのだ。

このくらいまでなら筆記できるだろうが、コントレスカルぺ広場で花売りが道端で花を染め、その染料が乗合バスの始発場所の車道に流れ、ワインや安マリックで年寄り達や女どもが何時も酔っぱらい、寒さで子供達は鼻を垂らしている。汚れた汗の臭いと貧困そしてカフェデアマテウスでの泥酔と階上二人して住んだバルムゼットの売春婦達。玄関の椅子の上に馬の毛の飾りを付けたヘルメットが置いてあるから、きっとアパートの受付嬢が共和国の警察官と自分の部屋でよろしくやっているのだ。廊下を隔てた部屋の自転車のレーサーを亭主に持つ女の部屋と、クリメールで見たロートを開いたとき彼の始めての大レースで三位になっていたツールドパリの記事。彼女は顔を紅潮させて笑い声を立ててその黄色い新聞を手に持って喚きながら階上に上がっていった。バルムゼットを差配していた女の亭主はタクシーの運転手だったが、彼、ハリーが早の飛行機に乗るときにドア-を叩いて起こしてくれてから出発前にバーの金属カウンターで一緒に白ワインを飲んだっけ。

この界隈には二種類の人間が住んでいた。酒飲みと運動好きの奴らだ。酒飲みは飲んで貧乏を忘れ、運動好きは体を使って貧乏を拭い去った。彼らにはコンミユーン党員の血が流れているから、彼らにとって政治とは、理屈をこねくり回して理解するものではない。あのコンミューン崩壊の後、ベルサイユの軍隊が入ってきて町を取り上げ、節くれだった手をしているもの、運動帽を被ったもの、その他どんな風体でもそれが外労働者風であれば片端から捕まえて処刑した時に、どいつが彼等の父親や親類や兄弟を誰が撃ったのかを知っているからだ。そんな貧困の内で、あのブッシエシバリエ、あのワイン生協から道を隔てた一区画から彼の稼業は始まったのである。パリ中のどこよりもここが好きだった。伸びやかに枝を広げた街路樹、裾が茶色に塗られている白く塗られた古い家並み、円形の広場の長い緑色のバス。花を染める染料で紫色になった歩道。セーヌに下るカルデナルルモワ-ル通りの急勾配。それとは別の狭くいムフタール通りの賑やかさ。自転車で登ったパンテオンへのあの道はタイヤに滑らかなその区域での唯一のアスファルト舗装の道で、細長い家々とポールベルレーヌが死んだあの背の高い安宿が並んでいた。住いのアパートには二間しかなかったので、家々の屋根と煙突そしてパリ中の丘が見えるそのホテルの最上階を月に60フランで借りて書いていた。

アパートからは薪炭屋の敷地だけしか見えなかった。奴はワインも売っていた。悪いワインだった。金色の馬の首が突き出たブシェリエ シュバリエには金茶と赤の馬の屍骸が幾つか店先に裸でぶら下がって、二人で安くていいワインを買ったあのワイン生協は緑色に塗られていた。その他は白壁とご近所の家の窓だった。夜中にどこかの酔っ払いが寝転がったまま、フランス語であるわけがないような、あのいつものヘベレケ節で唸ったりうめいたりしていると近所の人達は窓を開けてひそひそと話をしたものだった。

「お巡りは何処に行ったのだい?いらない時ばかり居るんだから。大方受付嬢と寝てるんだよ。警察に知らせようよ」

そのうなり声も誰かがバケツで水をかけるまでの事。「どうしたんだい?水か。ああ、そりゃ賢いわ」家政婦のマリーは時間労働制度に反対してこう言っていた。「もし亭主が6時に仕事を終えれば帰りにそんなに飲まないから金も使わない。それが5時なかったら金がなくなるまで毎晩飲んでしまうのよ。時短で酷い目にあうのは労働者の女房なんだよ 」

「もっとお澄ましいかが?」女が彼に言った。

「いいよ、本当にありがとう。凄くうまかったよ」

「少し召し上がりなさいよ」

「ウイスキーソーダが欲しいな」

「それは良くないわよ」

「違うよ。それは俺には悪いんだって言うんだよ。コールポーターが作詞作曲したやつだ。「お前は俺にくびったけ。それが俺には辛いんだ」

「あのね。飲ましてあげたいのよ」

こいつがどこかに行ってしまったら、と彼は思った。飲めるだけ飲んでやる。飲めるだけではないではないが、ここにあるだけは飲んでやる。ああ、彼は疲れた。疲れ過ぎた。彼は眠りかけていた。静かに横たわっていると、死はそこにはいなかった。きっと他の通りに行ってしまったんだ。二組の自転車で、全く音も立てずに進んでいるんだ

おっと、パリの事は書いてはいなかった。心に残るあのパリを書いていないのだ。まだ書いてないことがあったか?あの牧場と銀ネズのセージの群れ、灌漑の澄みきった急流、深緑の馬肥やし。あの幾つかの丘に続く登り道に、夏の牛は鹿の様に臆病な事。

秋、牛たちを山から下ろすときの引きもきらないあの鳴き声と、音を上げ土煙を上げながらゆっくりと移動する大きな一群。山々の彼方で夕刻の光にくっきりと浮かぶあの峰と、月明りを浴びて馬に乗って降りてきたあの山道の事。見えなくなると馬の尻尾を掴んで、縫う様に林を下った事のどれもが書く意味のある物だった。

誰にも干草をやってはならぬといわれて牧場に残された少し足りない牧童と、その子を以前、殴っては使っていたフォーク牧場のくそ爺が飼料を取りに立ち寄ったときの話。言われていたように、その子が飼料の持ち出しを拒むと、爺は又殴られたいのかと言って納屋に押し入ろうとしたら、その子は台所からライフルを持ち出し、爺を撃ってしまったもんで、皆が帰った時は死後一週間の死体は所々を犬に食われて牧柵内で凍りついていた。食い残された死体をなんとかその子に手伝わせて橇に載せて、毛布に包んでロープで纏めて、60マイル離れた町までの道を引っ張って下ってからその子を引き渡した。その子は捕まるなんて夢にも思っていなかった。役目を果たしただけだし、お前とは友達だし、きっと褒美でも貰えるのだと思っていた。どんなに爺が悪い奴で、自分のものではない飼料を盗ろうとしたのかを皆に知らせ様と橇に積みこむのを手伝ったのに、保安官が手錠をかけるなんて信じられなかったのだ。それでその子は泣きわめき出してしまった。

あの場所から少なくとも20のよい話が思いつくのがわかっていたのに一つも書いて

はい。

「何んでだか、皆に言ってみろよ」

「何でだかってなに」

「何でもないよ」

彼を自分のものとした今、彼女はそうは飲まない。しかし彼女の事は生き長らえたとしても決して書かないだろうと自分で分っていた。それどころか金持ちたちの事すら何も書かないだろう。金持ちは退屈で大酒のみで、バックギャモンばかりしている。同じ事の繰り返しの退屈な奴らなんだよ。貧乏なジュリアンの金持ちに対するロマンチックな畏敬の念を思い出して「大金持ちはお前や俺とは違うんだ」と彼が言ったとき、そうさ奴らは金がもっとあると誰かが言ってもジュリアンにはそれが冗談だととらなかったと言う小説の出だしを思い出した。彼は金持ちとは特別な魅力を持つ人種だと思っていたのだが、それがそうではないと知ったともたいつもの様に落ち込んでしまったのだ。

自分は落ち込ませた方の奴等なんか馬鹿にしていたものだ。理解したからって好きにならなくてはいけないわけではないんだよ。気にしなければどんなのにもやられることはないんだよ。

そうさ。死ぬことだって気にしないぜ。痛いのだけはかなわないけれど。どんなに痛みが続いても男だからくたばるまではがんばってやるが、今度の奴は、何かたまらない痛みが襲ってきて、もう参ってしまうという直前になんと痛みが引いてしまったのだった。

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